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今のところ

オンラインに絵をどんどんアップするので、転用や真似されたりは大丈夫ですか?と心配してくださるかたもいるし「こんなふうに使われてますよ」と知らせてくださる方もいるし、なんと相手に警告までしてくださる方もいる。気にかけてくださって本当に嬉しい。

 

そういうことに関して、今のところ気にしない。無断で転用されてるのを観ると「ほぇぇ〜」と思う。あまり自分に関係のあることのように感じない。たとえそれで利益を得るひとがいるとしても、こちらの何かか減るわけでもないかなと思う。

無断で転用したりそのまま真似する作業は、すこしさみしい作業だ。そういうところに合わせて配慮したくないように思う。たいはんの、多少でも好意を持って観てくださる方々のことを優先したい。真似するひとがいるとしても、真似が本家に迫ったり、本家を越えることがあれば、それは本家の不足なのだと思う。こちらももっとがんばらなくてはと思う。きっとなんでも。

うろうろ思う

このあいだの選挙についてうろうろ考えさせられる。

 

社会主義、共産党体制、安保闘争、革マル、中核派、旧民主党、日本のほとんどのリベラル…わたしはそれらを支持できないな。それらがかつぐ人々と、それらが掲げる美しいプロパガンダのほとんどを疑ってしまうな。

自民党もクロいけど野党の面々はど漆黒に見える。福沢諭吉さんの「政治は悪さ加減の選択」という言葉は、理想ではないけれど真実だと思う。

フィクションは娯楽

映画「八月の鯨」のDVDを買った。中古で480円だった。観たいと思っていた数少ない映画のひとつ。

 

実写の映画が苦手。若いとき、ひとに「もっと映画を観なさい」と言われたり、自分でも「もっと映画観ないと」と思ったりしたけれど、どうしても気が進まないので、今はあきらめてる。状況と登場人物の様子がくっきりしすぎてて、想像の余地がなくて、動揺しすぎて、くたびれてしまって、全然娯楽にならない。昔々、ビョーク主演の「Dancer in the Dark」を観たことを今でも後悔してる。何か啓蒙されたりリアルを突きつけられることは意味深いことなのだろうけど、わたしの場合はただのトラウマになる

 

本を読むときは、しばらく読み進めておおよその内容をつかんだらさっさとラストを読む。「そうなるのか」と結末を知って気持ちが落ち着いてから、また戻ってじっくり文章を読んでいくのが好きだ。どきどきはらはらしたくない。たぶん、物語の起承転結より細部が楽しいのだと思う。そして同じ本を何回も何回も読む…気心の知れた本で、安心して読めるから。

 

映画も、物語が静かで細部が凝った映画なら大丈夫かなと思う。あと、お気楽なものか、大河的なものか。小津安二郎作品も好きだけれど、物語はせつない。レンタルでよく借りるけど「この話、哀しいんだよなあ」と結局ぐずぐず観ないまま返却することが多い。そして息子といっしょに「ドラえもん」や「ポケモン」を楽しく観る。

 

 

映画、映画…映画というと、どうしても目と耳をふさいで走って逃げる自分の姿が浮かんでしょうがない。

「八月の鯨」いつ観るだろうか。

お風呂あがりに

昨日お風呂あがりに、来年の個展のおおまかなイメージがすとんと決まった。

むずかしい課題はお風呂からあがって身体をふいてるときに、ふっと答えがおちてくることが多い。たぶん一番頭がからっぽの時間なんだろうと思う。なんにも考えていないときにおちてくる。先日も「それはしたことないのでできるかわかりません」というような課題の具体案が風呂あがりにふってきて、そのまま脱衣所で i-phoneのメモに概要をばーっと書いておいた。どうなるかな。どうだろうな。

 

個展は11月がいいな。どんどん寒くなっていく季節とともに準備をすすめるのが好きだ。

 

追記:あと、車の運転中にも浮かびます。

墨と朱

3年くらい前、絵を描く色を墨汁のみにすると決めたとき、5つくらい理由があった。でも、クロとオレンジの組み合わせは好みではなかった。わたしには強過ぎる組み合わせのように感じた。もともと、くすんだブルーやピンクが好きだった。

 

昨年くらい、なんとなく自分は昔より強くなったかもと思うようになった。このクロとオレンジの強い組み合わせに引っ張られてるようだった。絵のほうが、たぶん自分よりも先に強くなっていた。

 

今年になって、この2色で淡い雰囲気が出せるようになってきたかも、と思った。以前ほどどぎつく感じない。気のせいかもしれないけれど。

 

来年2020年になったら、縛りをやめて他の色も解禁と決めていたけれど、わたしにはまだまだ、この2色だけで進めるところがあるかもしれない…と最近思う。

泣く資格

明後日、息子の卒園式がある。

 

保育園はしばらく前から活気づいていて、年長組の子どもたちは興奮して、男の子も女の子も、わたしにもよく話しかけてくるようになった。先生方も浮き足だってるし、保護者の方々は立ち話が長い。ああ、保育園でも卒園が近づけばこんなに日常と違うのだなあと驚いた。ちょっと、身の置き場に困る感じがする。

 

今まで自分の卒業式で泣いたことは一度もない。春。祖父の葬儀があった春もあった。そこでも泣かなかった。祖母の葬儀でも泣かなかった。「あんたは本当につめたい」と、そういう式で、友人にも身内にも言われたことがある。

春になると思い出す。

 

泣く資格、というのがあるような気がしていた。式典で涙を流す前にするべきことが、自分にはたくさんあったように感じた。みんなと別れる前に。おじいちゃん、おばあちゃんが永遠にいなくなってしまう前に。戒めとして身の内に留めておくことが、たくさんあるような気がしていた。

 

明後日、そんなわたしでもきっとたくさん泣くだろうと思う。自分の子どものことだとあんなに涙が出るのはなぜだろう。

春はなんとなくかなしい気分もある。

 

追記:結果、たいして泣かなかった。お式での息子のボケと成長っぷりにウケて笑ってました。

細く長くあたたかく

お年始に、「〜したら必ず後悔するだろうこと」という項目で、思いつくことを書き出してみたら、家族に関わることしかなかった。

”てきとうにごはんを作る”とか”寝不足で家族にあたる”とか”息子の「今」に集中しない”など。 そうだな、そうなんだよな…ということで、試行錯誤だけど、じわじわとお受けする仕事を減らしていっている。この春から息子は小学生になるから、新しい生活のリズムがどのようなものかまだ検討がつかないし、どれくらい仕事に時間を費やせるのか不明という理由もある。

 

今は夜寝るとき、家族3人川の字でくっついて寝て、布団の足もとには猫の兼継がいてくれるけれど、いつの日かひとりきりで寝起きする日がくるだろうと、わりとよく想像する(わたしの血筋はけっこう長寿、夫の血筋はそこまでではない)。晩年をそれなりに快適でほの明るいものにするために、このような日々をちゃんとよく味わっておきたいと思う。

 

それに、たぶん、そのほうが、絵を描くことにとっても良いことと信じている。細く長くあたたかく続けていくこと。

リハビリ

最初のホームページを立ち上げたのは、確か2005年頃。そのときブログも同時に書きはじめて、2015年にインスタグラムをはじめるまでごそごそと続けていた。インスタグラムがあまりに手軽なので「ブログもうやめよ」と過去の投稿をほとんど削除して放置していた。

SNSはまるでコマーシャルの世界。巷のブログもずいぶん様子が変わって、昔はただのシンプルな読み物だったのに、今は商売っ気が強いというか、やっぱりコマーシャルのようになった。フォーマットも複雑になった。

ときどき文章を書きたくなるときがある。でも書くのも読むのもSNSに長文は向いていないから、こっそりブログを再開したのだった。そうすると、日常のことやちょっと思うことなどをくるまずそのまま書く…それがけっこう勇気がいるということに気づいて驚いた。昔は全然平気だったのに。SNSはインスタグラムしかしていないけれど、それでもずいぶんSNS世界に慣れちゃったんだなあと思う。

 

なんとなく、リハビリのようにぼちぼちとこのブログを書いている。なんのリハビリなのか、まだよくわかっていないけれど。

濃いめのはなし

20代後半から30代前半(90年代最後あたりから2000年代頭)にかけて”自然派嗜好(仮)”だったと思う。その時代はテクノ→ブレイクビーツ→トランス→ジャムなど、野外での音楽イベントやレイブ、祭りも多く、日本中出かけてはテントを張って何日も踊った。PHISHのツアーを追って西海岸を横断したりした。会場では音楽だけでなくトークショウや瞑想などのワークショップも多かったし、音楽雑誌では「グローバリズムの終焉」という特集が組まれていた。ネイティブ・アメリカンや北山耕平さん、ノーム・チョムスキーの著書を読み「ガイアシンフォニー」を観て、ヨガをしてヘンプ(リネンではない)や古着を着ていた。古い一軒家に住み野菜を育てた。今の東日本震災後のカルチャーとまたちょっと違う感じの。

それらが個人的に終息した理由は、たくさんたくさんある。でも1番は、出産した息子に生まれつき内臓疾患があったことだろうと思う。

心配と不安で仕方がない時期に、たくさんの検査や投薬が必要なことについて「MRIって被爆するんでしょう?西洋医学に頼らない治療法はないの?」と友人から言われたとき「え」となった。MRIの被曝?それどころじゃなかった。“素晴らしい出産、理想的な環境で育てる育児” もどこかに飛んでいった。もうなんでもいい、そこそこ元気であってくれればいい、それがいちばんの願いだった。1歳半での手術入院のとき、24時間付きっきりの1ヶ月が終わり、管やら点滴やらがとれた息子を抱っこして病院の外に出たとき、青空だった。そこは本当に眩しい世界だった。いつもの町のいつもの景色が、充分美しく、平和で、健康的だった。「シャバに出た気分だ」と一緒にいた夫に言った。

そこそこふつうに良ければ恩の字なんだ。息子の病気の心配が最小限になった今も、それは生活全般の底にある。

血と土地

「わたしの父は岸和田出身で…」というと、寺岡さんとマッチさんは「それすごく納得がいく」とうなずいた。

 

父は、だんじりで有名な岸和田で生まれ育った5人兄弟の末っ子。関西の気風になじめず、高校卒業と同時に田舎を求め鳥取県米子市に就職した。そこで3人兄弟の長女の母と出会い、若いうちに結婚した。わたしが生まれ育った場所は、弓ヶ浜というか細い半島の真ん中で、その昔は"よみのはま"と呼ばれ、ずぶずぶの砂地で食物も育たず、追われびとが逃げ込むような貧しい土地だったという。半島の幅はたぶん5キロくらいしかない。3方を海、1方に霊峰大山を観て育った。

 

自分の血、育った土地、というものを、よく考える。

若い頃「絵画や文学の話ができる相手がいるといいのに」ともんもんと願ったりした。ところがいざそういう機会があると、真剣に本や芸術の話をするひとびとや自分をかえり見て、どこかこっぱずかしく、居心地悪く感じてしまう。

「しゃらくさいんでしょう」とマッチさんが言う。そうそう、しゃらくさい、その言葉がぴったりだ。

大阪人と米子人は気質が似ている、とよく言われる。商業の町で実際的、抽象論は苦手。他人の陣地にずけずけ入りめんどうみが良く、相手の欠点もまあまあと受け入れる。格好つけるのは嫌いで物言いはストレート、反骨気質。ヤンキー気質。ガラが良いとはいえない。

 

故郷に残るひとと、出ていったまま帰らないひと、その2種類。その違いはいったいなんだろう。わたしは大学時代4年間を除いて、42歳まで故郷に暮らした。夫も生粋の弓ヶ浜っ子だ。もうずっと、4人の両親を看取るまでそのまま不動と思っていた。

 

今、福岡県太宰府市に暮らして半年がたつ。わたしが故郷を離れるなんて神さまも想定外だったのではないだろうか。突然遠く離れてしまった両親のことを考える。夫の仕事の都合で数年後には東京に引っ越す可能性もある。息子のこれからのことを考える。わたしは最期、どこにいるのだろうか、そんなこともときどき考えたりもする。